弘徳寺について
当山の開基は、口伝鈔に登場する二十余輩第五番、信楽房(相馬太郎義清)である。
貞永の頃、親鸞聖人がこの地に御巡錫になり、その時に立ち寄られた小堂を同行していた信楽房に託されたと伝えられている。その後、親鸞聖人のご子息、善鸞上人が、晩年ここに滞留し、御往生なされたと伝えられている。
弟子の浄念房(弘徳寺第二世)、作佛房(弘徳寺第三世)、観仏房等の後は、天正年間まで、新堤(茨城県八千代町新地)の弘徳寺と兼任であったと考えられている。
弘徳寺第十一世、信栄房は、石山の合戦において負傷し、帰参の途中、箱根の山中(やまなか)で往生。
その時、同行していた栄西房(上杉五郎朝定の子)が、姻戚であったため弘徳寺を継ぐ。第十二代に至って、栄西房が当山専任の住職となった。慶安二年八月寺領二十九石三斗餘の御朱印を賜ふ.
以後現在(二十五代)まで続いている。
参道から本堂と大松
文政7年(1824) 現本堂再建
平成11年(1999) 弘徳寺門徒会館 建立
平成23年(2011) 境内整備事業第1期
平成30年(2018)第24世 釋淳心 往生
弘徳寺の始まり
弘徳寺寺伝によると、この地は、かつて、聖徳太子の御発願により秦河勝が地蔵菩薩の像を安置するために建立した堂宇の跡で、親鸞聖人は貞永の頃、この地に御巡錫になられたということである。
『神奈川県史 資料編20 考古資料』には、飯山廃寺跡として、示されている。
寺境内から、奈良後期~平安初期の布目瓦が発見されているが、発掘調査がされていないため、年代確定は困難、一応寺跡としている。